死が常にそが傍らに在る。

 舞方さんのブログでも触れてたんで、ちょっと私も「アウシュビッツ」の話を・・・。
 先日NHKで特集番組が放送されてました。私も「勝者が紡ぐ歴史」というものには時々疑問符をつけたくなるんですが、「アウシュビッツ」に関する映像・資料を見るとかの地で行われた行為が「弁解の余地の無い蛮行」「人類史上の汚点」という烙印を押されて当然だと思います。ごく普通の人々が普通に「虐殺」に荷担していたことには薄ら寒いものを感じますね。
 そういった「普通の人々」が何故「虐殺」に荷担する事になったのか、考えると私は2つの要素に思い当たります。
 1つは「責任の所在の不明」という要素です。「命令だから」「周りもやってる事だから」自分に責任がないあるいは責任を問われないと思えば人って生き物はけっこう平気で残酷な行為をやるものなんですね。その代表例が悪名高い「ガス室」と言う奴でしょう。「ボタン1つで自分の手を汚さず」と言う奴です。結果的にそのボタンが何百人の命の火を消す物だとしても「システムの一環」として押してしまえる訳ですね。
 もう1つは「異常事態の常態化(それに伴う通常感覚の麻痺)」という要素です。戦争という非常事態、それに伴う身近な「死」、「困窮」そういった環境においては、人間はむしろ自己防衛の為に感覚を麻痺させてしまうんですね、「心の自衛作用」とでもいえばいいのか・・・。極端な言い方すれば
こんなに人が死んでたらそのたびに悲しんでいたらきりがない。」
という感覚でしょうか。「戦争」の現実では悲しむ・悼む・思いやるそんな優しい気持ちをもち続けていたら心が壊れてしまうからなんでしょうね・・・。
 収容所で行われていた拷問の1つにこういうのがあります。
最初にくたくたになるまで穴を掘らせる、で翌日その穴を埋めさせる、でまた翌日穴を掘らせる・・・、これをひたすら繰り返す
人間は「無意味な行為を続けさせられると最後には狂ってしまう」そうで、肉体の疲労(穴を掘る行為による)、極限に追いこまれたうえに無意味な行為の繰り返しだと心が壊れてしまうんですね。所謂某アニメの主人公のように「僕は価値がない、生きていても意味のない人間なんだ」と思ってしまう訳です。なんかえげつないやりかたですよね。
 現在の世の中でも「自分に責任ないからどうでも良いよね」とか「未来に希望ないしどうでもいいんだけど」なんて主張を聞きますが、こう言う事言う人はきっと「戦時下の人間」と同じ考え方なんだろうな・・・。(単に「刹那主義」「快楽主義」かもしれませんが(笑)、だとすると自分もそうなりますが)
 でもほんと私の好きなMCって「非日常の常態化(あるいはそう精神に錯覚させる)」という要素含んでるな・・・。どうりでなんか引っかかった訳だ。納得。
 今回の内容は舞方さんのブログの記事にインスパイアされて書きました。ありがとう御座います(笑)。また宜しく(笑)。
 それではこんなとこで、まいどだらだらすいません。コンゴトモヨロシク・・・。