イマジレス

おはようございます。雪は上がったようで、仕事が休みなんでのんびり出来るのは嬉しいですが、外に出かけるのも面倒なんですよねー・・・。
いずれにしても、今
スーパーボウル
やってるんで、見終わるまで出かけるつもりはないですが。
スーパーボウルと言う事で、普段の放送でははしょられてるインターバルでの動き・選手達の素顔が見れて面白いですね。
結果が出るのはまだ後でしょうが、どうなりますか?



でちょいとまた思った事を書いてみようかと思います。
元々子供ってのはヒーローとか派手なバトルってものが大好きで、特に
「実際の戦争を経験した事のない子供たち」
ってのはその傾向が強いそうで、昨今の格闘技ブームの根底を型作っているのも
「そういう世代の子供の延長線上にいる人達」
なんでしょうね。
「無敵のヒーローがカッコ良く悪の怪人をなぎ倒す」
って。
しかし昨今のそういう子供向けヒーロー物・戦隊物とか見てると一つ変化・特徴があるんですよね。
それは
「悪の存在の抽象化・ぼかし」
と言うべき物です。
かっては仮面ライダーでの悪は
「世界征服を企む秘密組織ショッカー」
でした。
他の類似作品でも同様に悪の組織ってののデイテールは

謎の組織と言いつつそのおどろおどろしい存在感は強烈で
悪の首領の元、
「改造人間を使って、様々な悪事を働き社会を混乱に陥れる」
という組織であり、その究極目標は
「世界征服」
である

って感じでした。
その野望を阻止する為に、ヒーローは戦いを挑む訳なんですが・・・。
今ではそういう悪の組織にとって、最大の脅威は‘無敵のヒーロー’ではなく
「子供たちへの悪影響」
というものなんですね。



90年代以降、かっての社会環境からは考えられない凶悪犯罪・組織的犯罪がありました。
宗教団体の凶行や短絡的愉快犯、なんの動機もない通り魔的犯罪等々・・・。
そういう社会環境の中で、子供たちの接する・その思想形成に大きな影響を与えるTV番組は色々な制約を受ける事になります。
それはつまり

「TVを見てその中でやってる事を子供たちが真似しちゃ大変だから」
「犯罪に当たる行為を子供たちが模倣したら困るから」

って理由な訳で・・・。そういう状況下においては
「現実に存在する・起り得る犯罪的行為・実在するような悪の組織」
ってのはNGであり、
実際に現実社会において、そういう犯罪があった故に、悪の組織は迂闊に

「幼稚園のバスを襲ったり」
「学校を襲って子供たちを人質にしたり」
「街に細菌・毒をばらまいたり」

出来なくなったんですね。「それ見て影響されたり、真似したら困るでしょ!」
ってな感じで・・・。
でスポンサーもそういう描写には気を使いますし、作り手も
「作品の社会的影響力・特に若年層への悪影響」
ってものに制約受けている訳で・・・。
「極力倒される悪は、人間外・異質な存在であるのが望ましい!」
だから最近のそういうアニメ・特撮の‘悪の存在‘は
「エイリアン」「未知のクリーチャー」「異世界からの侵略者」等々
極力「現実と結び付かない・日常生活から遠い存在」になってるんですよね。
その‘悪事’も現実に真似できないような行為である事が殆どですし、
悪事の被害者の描写も極力最小限にされてます。
「極力周囲に悪影響与えないような所でこそこそする悪の組織」
になってますよね(笑)。どうよ、それ・・・。確かに犯罪はこっそりやるもんだけどさあ・・・。



どうなんですかねー、そういうの・・・、
私なんかは
「物語の中でなら、なんでもあり!が良いんじゃないの?」
って思うんで、こういう流れには納得出来ないんですが・・・。
「一人殺せば推理作家、10人殺せばホラー作家、・・・万人殺せばSF作家」
みたいな、‘虚構の物語の中だからこそ解放される表現‘ってやつを大切にすべきだと思うんですね。
そういう描写が若年層に悪影響及ぼすから駄目!って言う前に

「こういう事現実にやったらいけません!」
「これは犯罪だから、やってはいけませんよ!」

という
「現実と虚構の境目を認識させる・それを見極められるようにしてやる」
事が重要なんではないですか?昨日の論の延長みたいですが。
例えるなら
使い方によっては、凶器に成り得るナイフを、子供の手の届かない所に置くのは良いでしょう、ただそうして、隔離して
「ナイフで刺される痛みを知らないまま」
でいれば、いずれそのナイフを手にした時どうするのか?使い方・処し方がわからない!
「ナイフの本来の使い道・それが持つ危険性」
を理解出来ないでしょう。
「これは果物をむいたり、何かをカットする作業で使うんだよ。むやみに使うものじゃないんだ」
って教えてあげて、そういう‘刃物’の正しい使い方を認識させる事が大事なのでは?
その上で「不用意な使い方」「危険な事故」を避けるように注意を払う事、それが大事なんでは?
そういう過程がなくて、‘刃物’から遠ざけられていた人間つまり、
刺される痛みを知らない=刺す事の痛みもしらない人間
のほうが、むしろ凶悪犯罪・社会に害をなす行動を起こす事が多いと思うんですが・・・。
無論そういう‘認識’の為に試しに人を刺してみろ!などとは言いません。
刺す・刺される痛みを知るそしてそう言う痛みを
「想像出来る力を子供達に持たせる事」
が一番重要なんではないでしょうか。
保護者達のむやみに有害と断じた物・教育上よろしくないと判断した物への攻撃・隔離政策
「ナイフの正しい使い方も知らない人間をつくってるだけ」
だし
「子供たちの判断力・想像力を奪い、物事への対応能力を劣化させている」
だけなんではないでしょうか?



思い返すと私が子供の頃悪い事すると、
「親父の拳骨」
が飛んできました。食事中迷い箸したら箸で手を思いっきり叩かれた事もありました。
そういう「体罰」ってのは原始的で非人間的である事は確かだし、私も体罰で教育ってのはどうかと思います、犬やネコじゃないんだし・・・。愛・思いやりのない体罰
「ただの憂さ晴らし・暴力」
に過ぎないですしね。
でもその時の痛みは、今も私の中に記憶として残ってますし、今になれば
「そういう悪い事した時どんなしっぺ返しがあるか、大事になる前に教えてくれてたんだなー」
って思うし
「殴ってた時の親父の気持ちも辛かったろうな・・・」
って思うんです。
私に、悪い事したらこうなるぞ!って事を想像する力を与えてくれたし、そう言う時の父の悲しそうな顔は
「殴られる方だけでなく、殴る方の心も痛んでいる」
って事を教えてくれました。


改めて言っておくと私は
体罰断固反対!」
って考えの持ち主です。殴って矯正・強制ってやり方は暴君・圧政者のやり口でとても肯定できるものじゃありません。
でもそれ以上に今の
「子供を叱る事も出来ない・拳骨も振るえない保護者の姿」
にはもっと納得出来ません!
ましてそう言う人達が、自分たちの教育能力のなさを棚に上げて
「独善的に有害と断じたものへ、抗議文という一方的に攻撃できる手段で、まるで臭い物には蓋をするように圧力をかける」
ってのは本末顛倒なんじゃないの!?って思います。
子供たちの為!という大義名分を掲げて、反撃される事のない位置から抗議行動!ってのはまるで
「自分が正義の味方になったようで」
さぞ気持ちが良いでしょうが、それは単なる
「子供の為と偽った自己満足」
に過ぎないでしょうね。

「子供たちの為にしなきゃいけないのよ!」
「私は子供たちの未来の為にやってるのよ!」

って安っぽいヒロイズムに酔うのはきっと気持ちよいんでしょうね。
「悪・即・斬!」ですか(笑)?
しかしですよ、そういうヒロイズムが毒とみなしたものを全て排除した世界ってのがどんな世界か考えるだに恐ろしいですね・・・。それこそSFでしかない
「完全なる統制社会・抑圧・無視される個人の存在」
ってやつでしょうね・・・。特定の価値観が全てを支配する世界・・・。ぶるっ・・・。



「毒は使い方によっては薬にもなる、その逆もまた」という物事の二面性・違う側面を知覚する事無く、ただ闇雲に
「毒・悪・害は排除あるのみ!」
という姿勢では、社会生活を営む上で、完全にそういう毒との接触を絶つのは不可能である以上
「いざ病気になった時、耐性がない、薬がない・効かない」
って‘大変な事になりますよ’(笑)。
「現実が物語・虚構より上等である保証はどこにもない!」
ですから・・・、いずれ親の庇護を離れる子供に親がしてあげるべき贈り物は
「刺激・毒を排除した無菌室を与えてあげる事」
ではなく、
「刺激・毒に耐えられる強さ・精神力」
であり、それを生み出すのは何もかもを否定・排斥する事ではなく
「全てを受け入れて、それらあらゆる物に対するシュミレーションをしておく」
事ではないんでしょうか?



なんかたかが「バラエティーへの抗議行動」に対して大仰に書きましたが、こんな所で・・・。
あくまで私見であり、私の周りには上のような極端な考え方する人はいませんけどね・・・。