遼東答礼使派遣顛末その2

すいませーん、いきなりですが昨日の続きです。
で昨日は遼東の公孫淵が呉の孫権に使者を送った所まででした。
でその遼東からの親書を受け取った孫権ですが、当然のごとく大喜びでした。
そもそもその頃の呉

・険路という要害のおかげで比較的防衛兵力が少なくて済んだ蜀に対して、呉は広大な長江流域の防衛・東西に伸びた領土防衛の為に、多くの兵力を必要とするのに、兵力が少なかった

と言う状況でした。
「呉の兵力が少ない」
その背景には「呉」という国の抱える事情がありました。
当時呉と魏の戦線は一進一退で、大きな国境線の移動は無くて、互いに
「局地的な勝利を繰り返す」
膠着状態でした。
ここで三国時代の人口統計の数字をちょっと挙げてみますと
三国それぞれの人口

・魏ー440万人
・呉ー230〜240万人
・蜀90万人

という具合で、一見して分かる通り
「最大勢力の魏が人口=国力で他の2国を圧倒している状態」
だったんです。
それは領土の広さ・後方補給地帯の大きさも同様で、特に魏は前線の後方に
「平和・安全な地域」
があった訳です。
そういった地域には当然兵乱の禍は及ばなかった。
でそうなると、後漢末期から三国時代に至るまでの動乱期
「中国北部・中原から戦火を逃れて荊州や江東に避難した人々」
北部の平和な地帯に戻ろうとし始めたんです。
当然ですよね。
「俺たち、北が物騒だから南に逃げてきたけどよ、今の北は落ち着いて、戦争に巻き込まれる事もないらしいぜ。」
という事で、故郷に帰ろうとする訳です。
無論呉としては移動の制限を設けたりしたようですが、
「人々の望郷の念」
と言う物は押え難いものですから、北部に移動する人は後を絶たなかったようです。
蜀はその点、元々人口は少ないんですが、北への帰路には
「蜀道の険」
がありましたから、北帰しようにもそう簡単にはいかなかった。
呉、その統治者孫権
「人口の減少=兵力の減少」
に頭を痛めていたんです。
そこに降って湧いたように舞い込んだ
「遼東からの手紙」
孫権は大喜びしたようですね。
「北の公孫淵との連合で魏を挟撃する!同盟締結!」
ぐらいまで考えたようです。
実際には「呉と遼東」の距離的に両勢力連合による共同作戦は不可能に近いんですが
まあ親書のなかで、公孫淵が自ら
「臣」
と称していた事も孫権のプライドをくすぐったんでしょうね。
「魏に臣従していた国がわが方に臣従する意思を見せている!」
って。取られてばかりの魏に対して一矢報いるチャンス!とばかりに。



この時点で、公孫淵孫権の両者には大きく温度差があったんですね。
前回記述した通り、公孫淵からすれば
「呉に頑張れ!とはっぱをかける」
ぐらいのつもりだったのに、孫権
「遼東と連合して、魏を挟撃する!」
ぐらいまで期待していた。
でそれが後に・・・。



盛り上がっちゃった孫権は早速、公孫淵に対して
「答礼使」
を送ることに決めます。
答礼という事で3人の高級文官に呉の国書と数々の玉貨珍宝を持たせて、ものものしい船団を遼東に向けて送ることにします。
この決定に対して、呉の重臣達はこぞって反対します。特に重鎮の
「張昭」

・遠隔地であり連合のメリットがない事
公孫淵の意志が同盟にはない事

を説いて、猛反対しますが、結局孫権はごり押しで
「答礼使節の船団」
を遼東に向けて出発させます。



使節団が到着して慌てたのが、当の公孫淵です。
親書を送る事で、ちょっと呉にはっぱをかけて、魏をけん制するぐらいのつもりだったのに、
相手は本気で、答礼使節を送ってきて
「同盟・連合するつもり」
だというんですから。
それも隠密で密かにではなく、大勢の物々しい船団で来たとなれば、魏の情報網にも当然見つかっている訳で、仮に親書の件が魏に伝われば、当然追求は公孫淵側に来る訳ですし、そうなって戦争だ!となった時、魏の矛先は当然
「遼東」
に向けられるでしょう。
「魏は近く、呉は遠い・・・」
公孫淵にすれば呉の援軍などアテに出来ません
公孫淵は、使節団の持ってきた財宝にも目が眩んだんでしょうが。
答礼使節を捕縛・処刑して、運んできた財物を没収し、答礼使の首を魏に送ったんです(酷い)。
使者の首
「魏への従属の証として、ていの良い点数稼ぎに利用された」
訳ですね。使者となった3人はいい面の皮でしょう。
その功で公孫淵は魏の明帝曹叡から
「楽浪公」
に封じられます。
公孫淵にとっては呉の財物を没収した上で、魏の心証も良くするという一石二鳥の結果になった訳です。




という事でまたもや家臣の常識的諫言・反対を押しきって行った孫権くんのごり押しプランはまたも


惨憺たる大失敗


に終わる訳です。
財宝取られて、臣下を殺されて、随伴した兵士も奪われて、孫権にしたら、踏んだり蹴ったりでしょうね。実際滅茶苦茶怒ったでしょう
でもまあ結局騙した公孫淵もその後、魏に討伐されて、滅亡する事になるんですが。
因果応報と言えるかな?



これが「遼東答礼使派遣騒動」の顛末です。
孫権の治世後期の昏君ぶりを示すエピソードの1つです。
やっぱり孫権って相当駄目君主の匂いがしますね(笑)。
あと補足蒼天航路でも触れられてる、孫権と張昭
「笑い話さながらに読める」
意地の張り合いは、この時のエピソードです。

公孫淵に使者を送ることに反対して孫権と言い合いになり、怒った張昭は自宅に引きこもって面会拒絶・出仕拒否します。
怒った孫権張昭の自宅の門に外から土を盛って開かない様にしてしまいます。
これに対して張昭も負けじと、内側から盛り土をして対抗します(笑)。
で結局張昭の危惧・忠告した通り、使者の派遣は失敗に終わります。
でさすがに反省した孫権は張昭に謝罪します。
ところが張昭はまだ怒っていて出てこない。
それに再び切れた孫権張昭宅に火を放ちます(えーーー)。
で最後は張昭が息子達に脇を取られて、無理やり引き出されて、ようやく2人は仲直りをしたのでした。

子供のけんかだよ・・・。いい年こいて・・・。
「やーい、張昭のうんこたれー!」
「へへーん!孫権かあちゃんでーべーそ!」

とかいうレベルですよね(笑)。
一国の主と、天下の英才のけんかとは思えん・・・。



こんな感じでながながだらだらと続けてきた
「間違いだらけの空風鈴的三国志裏話」
いかがでしたでしょうか。読んでいただける方がいらっしゃれば幸いです。
いると仮定して、読んでいただけた方ありがとうございました。
考証・調査がいい加減なもので、まちがっている部分があったらごめんなさい。許してー。
それではこれで、コンゴトモヨロシク・・・。