遼東答礼使派遣顛末その1。

あー疲れた・・・。今日1日雪が降り続いていっぺんに街は雪景色に・・・。
それなのにお店は忙しくて、雪掻き→店→雪掻き→店→帰宅して家の前の雪掻きという
疲労困ぱいコンボ」
にはまってしまいました。明日も朝から雪掻きになりそう・・・ぐったり。
北国の人はもっと大変なんだろうなー、と実感する今日この頃。
早いとこ書いて寝よう、木金連休なんで明日頑張れば・・・自分にファイト!



で今日も昨日した予告通り、暴君孫権のお話。すでに知ってる、興味無いという方はあしからず。
うろ覚えと、いい加減な考証と私的推察が入ってますんで、おかしいところがあるのはひらにご容赦を・・・。
あと前振りが長いです。それもご勘弁を・・・。
今から記述するのは、俗に
「遼東答礼使派遣騒動」
といわれる事件の事です。
紀元230年三国の一角である呉の孫権は魏・蜀に続いて自らを
「皇帝」
と称します。そして三国時代
「三人の皇帝が並び立つ異常事態」
になる訳ですが、
そのころ三国に完全に分かれた地域以外にも、三国いずれにも属さない、独立勢力というものがいくつかありました。
その一つが
「遼東の公孫家」
です。遼東は中国北東部、満州の南部分に当たる地域で、そこで公孫家は

・初代公孫度が遼東太守に任じられ、高句麗・鳥丸などの異民族を討伐して、地盤を築き、
中央の混乱に乗じて「独立王国」を打ち立てた。
・2代目公孫康の頃、曹操に追われ、逃げこんできた袁家の残党・袁尚を討ち、魏に首を送って、その功で襄平侯・左将軍に任じられ、いうなれば所領安堵を認められる(魏としても当時は積極的に遼東支配に乗り出す気も余力もなかったんでしょうね)。

遼東の公孫家は名目上は魏に臣従しつつも、僻地の利を生かして「半独立状態」にあった訳です。
そして230年ごろの遼東の太守
「三代目公孫淵
だった訳です。で彼は魏から将軍の位と印璽を授けられたのに
「俺は遼東の王だ。誰にも臣従するものか!」
と言って投げ捨てた、という逸話が残ってるぐらいの自意識過剰、夜郎自大な人物だったんですね。
でその公孫淵が、孫権が皇帝に即位した頃呉に親書と共に使いを送ったんです。
陸路は当然魏の領内ですから、海路でですが。
仮に出来るなら蜀にも親書を送っていたでしょうね。
蜀はあまりに遠くて送れなかったようですが・・・。
そうした公孫淵側の行動にはいくつかの狙いがありました。

・現在形式上臣従している、南方の大国魏に対して、自分たちが
「呉とも通じる事が出来る」
という選択肢を見せる事で、威圧する。
蜀・呉が魏に滅ぼされるあるいは魏の南部国境が安定して、三国の関係が膠着状態になってしまえば、当然
「魏の北辺への圧力が強まる」
ので、それを避けるためにも、
呉の意識を北に向けさせる=魏の意識も南方へ向く事を狙った。
いうなれば「呉を元気付けるため」ですね。
「北には味方がいますよー、頑張ってー!」みたいな(笑)。

まあ遼東の王とうそぶくぐらいの人物ですから、大物意識もあって、
「別に魏に世話になってる訳じゃないし、俺だって一国の主なんだ!」
という見栄をはりたい心情もあったのかもしれません。実は伴わなかったんですが。



海路送られた親書を受け取った孫権の反応なんですが・・・。
ちょっと遅くなったので続きは明日に・・・。その2で記述します
それではこれでコンゴトモヨロシク・・・。

正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

いかん、孫権の話なのに孫権が出てこない(笑)、明日にまわしまーす、すいません。