夷州調査顛末。

あー疲れた・・・。早速今から三国志やろうと思ってますが。
その前にこっちをアップ。
なんかこちら石川は大荒れの天気みたいで、平野部でも15〜20センチぐらい雪が積もるとの事で・・・。
今年初めての積雪と言う事になりそうです。
いよいよ雪掻きのシーズン到来で憂鬱なんですが・・・。
朝家の前、昼店の前というローテーション(笑)。まあお客さんが少なくなって暇になる事は確かなんですが・・・。



閑話休題・・・
で昨日予告した続きの話なんですが。
まず「夷州人狩りなんですが、これは若干日本とも関わりがある話なんですが、説明すると

三国時代中国北東遥か海を隔てた地域を「夷州」と呼んでいた。当時の「倭」今の日本ですね。
当時の造船技術からして、「遥か海を隔てた地域」というのは、今の想像を越えた‘距離’があった。
故に中華の人々にとって、未知の領域であり、「人跡未踏、野蛮人の住む地」と捉えていた(あくまで想像上でですが)。
「倭には数万〜数十万の戦士が住み、勇敢に鹿の角を武器として戦う」
なんて記述があります。
夷州すなわち倭はかって秦の時代に方師徐福が船団を率いて渡ったと言われていた。
日本の「呉服」というのはこの時船団にいた「呉の人」が伝えたと言われてます(ガセらしいですが)。

で当時の中華においては、あくまで断片的な情報と‘異民族に対するイメージ‘による想像
「夷州は野蛮で勇猛な人が住む文明後進国
という認識だったんですね。まあ実際当時の‘中華文明圏’に比べれば後進だったでしょうが。
でその情報に目を付けたのが、その頃(紀元230年)
「兵力不足に悩んでいた孫権
だったんですね。夷州
「野蛮で勇猛、住人は皆戦士の島」
と聞いて、やもたても堪らず、夷州に兵士となる人員を集めるために軍を派遣する事にしたんですね。
孫権の目算としては

勇猛な戦士を多数捕獲して兵力不足を解消
勇猛といえど、文明が遅れてるからこちらの武装兵で簡単に捕獲出来る

と踏んでたんですね。
でも当然のごとく、呉の首脳陣は猛反対、特に陸遜
「遠隔地であり、航海の危険、瘴癘の危険があり、住民とは言語が通じず意志の疎通が出来ないから、成功の目算がないし連れかえっても意味がない。」
という事を説明して諌めたんですが、頑固な孫権くんは意固地になって
「衛温、諸葛直の2人の将軍に一万の甲子(武装兵士)」
という編成で夷州=倭
人狩り部隊」
を派遣したんですね




で結果がどうなったかと言うと・・・

どうにか夷州・倭に辿りつき、住民数千(3千人ほどと言われてます)を連れかえった。
航海の途中、疫病が蔓延し、甲子一万の内8〜9割が病死。

つまり
「完全武装の兵士8〜9千を失って、言葉も通じず、訓練も受けてない未開の住人数千を連れ帰った
という


‘惨憺たる大失敗’


に終わったんですね。
誰から見ても大失敗、それも反対押しきって強行した上での大失敗
でも‘皇帝’だった孫権くんが責任を問われる事は無い訳で、結局腹立てた孫権くんの命令
「衛温・諸葛直両名は‘誅殺’」
されちゃったんですね。
いわば失敗の‘腹いせ’、‘詰め腹切らされた’というところですね。
「失敗は将軍両名の無能さ故!」
なんて事にされて・・・。
まるで
「無能な上司の失敗を押しつけられて首にされるサラリーマン」
みたいですね・・・、今も昔も勤め人はつらいやね・・・。



これが大雑把にまとめた「夷州人狩りの顛末ですね。かなり書物の受け売りのつなぎ合わせなんで、間違ってる部分に関しては平にご容赦を・・・。なんか卒論の制作作業思い出しました(笑)。
最後に補足すると

夷州は、「夷州・たん州」という括りで呼ばれていて、夷・たん
「両方併せて倭」
と言う説と
琉球と台湾」
と言う説があります。

さらに補足

この事件の後紀元238年に魏の文帝「曹ひ」(漢字ねー!)が
倭の女王である「卑弥呼」の朝貢を受けたというのは、
魏志倭人伝
に記載されてますね。

中学の歴史の時間でも習いましたよね(笑)。

世界史の表舞台に正式に倭国・日本が登場するのはこの書物が最初でしょう。



こんな感じです。昨日予告した‘暴君孫権’もう一つのエピソードに関しては書けたら明日記述します。
それではまた、コンゴトモヨロシク・・・。